昭和46年04月26日 朝の御理解



 御理解 第95節
 「世には神を売って食う者が多いが、此方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ。」

 神様を売ると、金光大神様にお取次なさるのに銭金では拝まぬと。また拝みなさらなかった。氏子が用いるその真心、その真心を神様に取次がれた。そしておかげを渡された。これは大変きびしいことですけれども、これを一般に申しますと、御祈祷料がいくらとかお守り礼が、どこどこの神社の、どこどこの仏閣のお守りがいくらと言う様な事もここでは指してある。だから世には、とこう言うてある。世間には、そういう札を売ってなりわいを立てておる宗派もある。
 または拝み料、いわゆる御祈祷料を取って、またその宗教が立っておるのもある。この方は金銭、銭金ではない、銭金では拝まぬ。真心をもって願うなら、それを神に取次ぎ、おかげを渡された。おかげを受けたから御礼がこれこれと言う事もない。ここはそういうような意味で大体大きいと思うのですけども、この九十五節のこれに当てはまるかどうかわかりませんけど、これは、世にではなくて、これは金光教の教会自体のことを、世にはと言う事は、世間にはと言う事でしょう。
 けれども金光教の教会、いわゆる教会の看板をかけてお取次の御用をさして頂いている教師、お取次をさして頂いても、お願いをさせて頂いても、おかげをよう渡さない。おかげをよう頂ききらんいうのにお供えだけは受け取っておるというのは、あるとするなら、これは商法にしておるよりももっと悪いというふうに気が致します。御祈祷料を取って、それは効くか効かぬかわからんけども、御祈祷を上げたその御祈祷賃としてお金を貰うとか、お札を上げたんだから御礼をいくらいくらというのならね。
 神を売る事にはなろうけれども、それはまあ幾らかましです。労力賃というか又はその御札を持って帰るのだから、御札を買うてきた。売ったってばさらか悪い事はないけれど。ですからこれは世にはとか世間にはではなくて、金光教の教会をであっても金光様の看板かけておって、お取次をさして貰うて何がしかのお初穂とか、お供え持ってお願いにくる。それにおかげをもし渡しきらんとするならね、これはどう言う事になるだろう。私は神を売って金を儲ける方がまだいくらかましなような気がする。
 ただ取りしとるようなもの、代わりのものを何も上げていない。だから今日私が言おうとする事は、ここの九十五節に当てはまらないかもしれない。本当にこれお道の教師たるもの、ゆめゆめ迂闊な事であってはならんなあと思います。本気で力を受けなければならない。本気で神様の御信用を受けなければならない。でないと人が助からない。その助かったとして御礼せねばおられんのであり、御礼を持って来るのなら、これは言わば売るとか買うとかでない、ただ御礼を神様に氏子が真から用いてくるのである。
 それはおかげを受けるからである。そこでです、教師たるもの、ですけれども、これはここに御神縁を頂いとられる皆さん、金光様の御信心とはそういうものだなと。これはやはり本気で信心を頂いて力を受けなければいけないと。例えて申しますと私の方の、私の後を誰がどういうふうにして継承していくかわかりませんけど、まあ順から行ったら若先生、いわゆる勝彦が継ぐことになるでしょう。そこでならば勝彦自身に力がなくて人が助からない、参っては来る、何とはなしにごまかしにお話だけは出来る。
 ちゃんと誰でも話の出来るように、お話の本もあるのだから、けれどもそのお説教上手になっても、おかげを渡しきらないとするならば、神を売って食うよりももっといけない、つまらないと思う。そこで子供たちに求める話ですが、それをやはり皆さんの場合でもそうです。昨日は研修会でした、研修会でもお話をしたことですけども、もう私が切に願う、思うことはね、私が頂いておる信心を、皆が本気で、もちっと本気で頂こうとする姿勢を取って下さることだと。
 皆さんが毎朝こうして御理解頂いておられるが、分った様な顔をして、実際はわかっておるのであろうかと、わかっとるならそれを行に表して行きゃ、おかげも受けられる、力も受けられるのだけれど、どうであろうかと。今日頂きましたが、あそこのところはどうも合点が行きませんでしたがと、本当に質問どもしてもらうなら嬉しいけれど、分ったか分らないか、分らない様な事ではね、本当にそれを思う。
それはね、なおさら私は自分の子供達の上にいわゆる、私の後を継いでくれなければならない子供達の上に、それを切実に思う。けれどもこれが中々思うように信心の受け渡しというのが出来ん。佐藤宿老の御詠の中に、[親の道、子が踏み行くは常なれど]という詠があります。「親の後を継ぐのは、これは子供は、これは当たり前、常なんだけれども、易きものとは思われない」という意味の詠があります。
 易きものではない。ですから本気で受けよう、本気で頂こうという精進がなされ、また頂いたそれをいよいよ表していこうとする努力なしにはおかげは受けられん。今日はそこんところをわかって頂きたい、だから九十五節ここんところは御道の教師に下さったわけでしょう。私はまた私の子供達に育ってくれと願いを込めておることを今話にしておりますけど、それを皆さんの上にも、そう私が願っておると言う事。
 私の信心を頂いて、さあ後で研究するとか、後で頂くと言うたってね、分らないところが出てくると、もうそれこそ誰も教えてくれ手がない。今ならば、わからんところがあれば、私が教えて上げることが出来る。だから問題はそれを受けようとする姿勢、いわゆる受けようとする精進。だからその受けるものを今度は現して行こうとする努力、そこから例えば今日、世には神様を売って食うような宗教もあるけれどもじゃない。
 私は金光教自体の中に売ることよりも、売ると言うなら何か渡してお金を貰ったのじゃからまだ良い。あんた方に御祈祷して上げたんじゃから、御祈祷料いくらですよ。先日私、あるお寺さんに行きました時も、ちゃんと御祈祷料ちゅうのはきまっとるのですね、いくらいくらとちゃんと決まっとる。お札をもらってくりゃ、そのお札一枚いくらと決まっとる。私はまだお札をやったり、御祈祷して上げたりするそのことに対する謝礼ですから、神を売ることになるけどまだ良い。
 おかげ渡しきらんでお供えを受けとるとすれば、これはもっと悪いと言う事なのである。そこで金光様の信心がそのように厳しいことが分って頂くと同時に、皆様もそこんところをです、そういう信心がこれだから私の後を継いでくれる人達。沢山のこれから弟子達が出来ますでしょう。そういう人達または私の子供達、私の後を継いでくれるにこれは切に願うことなのである。
 けれども、受ける側の姿勢としては、やはり今申しますように、道の教師だけが力を受けなければならんちゅうことではないのであって、皆が力を得なければいかんのですから、どうでも受けようという、それを頂こうとする精進がなければいかん。それを頂こうとする精進が、頂いたらそれを表そうとする努力がなさらなければならん。いわゆる惓まず(うまず)撓まず(たゆまず)ということになってくる。
 私の方の若先生の場合なんか例にとると、私がビックリする程私の信心を頂いておるとだろうかと思うような片鱗を見せることがある。まあ昨日高橋さんでしたか、「親先生は信心の天才だ」なんて言っておりましたけれども、まあ天才とも何とも思いません、本当言うなら鈍才です。けれども私の方の若先生にはそういうものを時々感ずることがある。大した精進もしよらん、熱心でもないのに何かそういう一つの天才的なものがあるのだろうかと思われるような片鱗を見せることがある。
 また私の言うことなどはもう一から十まで聞こうとは思ってない。自分が合点したことだけは聞くけども、承知しない、合点がいかないことだけは絶対聞きませんです。自分が一応納得しなければという生き方なんですね。するとこれが二番目になりますけどね、光昭になりますとどうかというと、この人は人間が利口ですからね、その時点その時だけはもう見事にハイと言うて、もういかにも頂いたかのように見うける感じが致します。けれどもただ利口なだけでですね。
 それを本当に少し精進し出すと中々良いところが出て来るけれども、精進致しませんですね。特にまあ、楽の方やら、少年少女会なんかの方に一生懸命あの人が打ち込んでますから、それで自分の信心は足りたような気がするらしいですね。一々呼んで聞かせるわけじゃない。するとこの三番目になりますと、やはり幹三郎になりますと、これも海のものとも山のものともわかりませんけど、まあ私が感じますことはです、例えば若先生あたりは、親先生が言うことに納得行ったことはそれを表わすけれども。
 受けようとする精進をしないですね、これは私が悲しいくらいに精進しません。これはここの修行生のことを言うても良いのですよ、皆さんの場合でもそうですよ。けれどもこの九十五節は教師に対する、教会に対するですから、まあ教師とか修行生とか、私の子供を例に上げとりますけど、折角何がしかのお供えをさして貰い、こうして毎朝眠いのに御祈念に参ってきておられるのにですね、本当に信心を頂こうと精進しないと言う事は、これは伝える者としてはこのように淋しいというより悲しい事です。
 今のうちなら、あっ、ここんとこわかっとくと素晴らしいことと思うて、だから私は引っ捉まえて教えようとは思わない。けどもそこを精進してでもわからせて頂こうとする姿勢を見せない。幹三郎の場合どうなるかというと、わからない先生が言われることがわからない、そしてどうなってくるかというと、わからないけれども、どうやら信心は理屈ではなさそうだぞとわかってきた。ですから私の信心のすべてをですね、もうズーからいって受けようという感じがありますね。
 そこに、いわば若先生を天才というならば、幹三郎は鈍才かも知れません。勝彦を兎というならば、幹三郎は亀のような行き方じゃなかろうか。兎と亀の走り合い、もうそういう信心の一つの才能的のものからいうたら、勝彦の場合なんかねもう兎のようなもんじゃろうと。ところが多寡をくくっている。ある意味あいでなめている。親先生の信心が素晴らしいというても、ほんの一部を素晴らしいと思うておるのであって、全体のところでは合点がいかん、合点がいかなければそれを聞こうともしない。
 姿勢も見せないというのが若先生の現在の姿勢だと思うです。だからこれは皆さん勝彦自身に言いよることでなく、皆さん自身のことを一つ考えてみて下さい。訳はわかるかわからないが知らないけれども、とにかく幹三郎の場合は、もう信心は理屈じゃない、いわゆる精進に精進を重ねる以外にはない。うまずたゆまず、そこからです何とはなしに有難うなってきたというものが身にしみ込んでいく、これからどのように変わるやら、それこそ海のものとも山のものとも分りませんけど、そういう生き方。
 昨日も共励会の、研修会の中に、秋永先生と文男先生が話を聞きながら、それと同じようなものを感ずる。それはもう頭ごなし「ああ、それはもう駄目ですよ」と言う事が素晴らしいですね。秋永先生が感じておることは。言うならそうゆうもの、天才的なものを感ずるですね。けれども実際実動ということになってくると文男さんにかなわない。例えて一例を申しますとね。
 いつでしたか研修会か十三日会の時に、腹を立てるにしましてもね、腹を立てさせて頂きますと、断りを言って、心から腹立てずに、ジェスチャーとして腹立てなければならんことがあったという意味のことを発表しとりました。それを昨日言っているです。実を言うたら、私はそんなことはありませんと、たった一辺だけそれがありましたというのです。そんなことはそのたった一辺だけジェスチャーに腹立てたんだけれど、その後の御気付きというのが余りひどかったから。
 もう以来腹は立てようとしてもいけないと言う事をわかったという意味のことを昨日話してます。秋永先生なんかそんな真似は絶対出来ませんですね。最近家内のこと奥さんのことについて、自分が段々大きくなってきて、腹が立たんようになったことを話していましたけども、そういうそこだけならば、「文男さん、あんた以外は誰もそれが信心が出来んから、あんたがそれはもうあんたそれ一本槍じゃから、本当にそこを大切にせにゃいけんね」というてから申しましたことでした。
 「立てようとしてもいけん」て言うて、発表の時はあんなふうに言うて申しましたが、実を言うと、私はまだ神様に誓うてから、まだ一辺でも腹立てたことはないとこう言うのです。それは実際にですね、そのこと一生懸命にそのことに取組んで、そのことに精進して、そしてまた表わして行きよる。例えば幹三郎のような生き方が本当にずうっと今のような状態で続いて行くとするなら、これはもう絶対そういう力を受けるでありましょうし、神様が信用しなさらんはずがないです。
 一昨日でしたか、御初穂の整理さして頂きよる時に、子供達がお金をもらっていくのに事務所から貰うて行くです。事務所はまた繁雄さんに請求する訳です。それを光昭なんか外出する度に平気で持って行きます。誰にも言わずに、それを幹三郎が整理を手伝いながら「僕はこげなことはしはきらん」ちゅうて言いよりました。光昭自身が取る訳でもなければ、事務所から持って行きよるのは当然必要な金として持って行きよるわけですけどね。そのものの見方、考え方の真面目な具合ですね。
 今言うように先がどうなるか分らんとですよ、三人の兄弟のことを言いましたが、まあ一長一短でね、中々どれが良いのか悪いのというのは思われませんけども、生き方としては、今の幹三郎の生き方がもう最高だと思います。毎晩いかに何があったってキチッと朝の御用をさせて貰いますしね。これが終わったらさっと事務所に入って、ほんなそれこそ一人で一生懸命やっている時などは、修行生も何もおりませんもん、幹三郎一人に任せてから、「あっ幹ちゃん、幹ちゃん」ちゅうて誰でも使いよかけん。
 誰で彼でも幹、幹ちゅう具合で、それをその嫌な顔もせんでサッサと一人でやっている訳です。そういう時にふれます時に、おかげ頂いとるなあと思います。他の人達は御祈念が終わったら、つうっと裏さへ行って、朝からテレビを見たり寝たりしたりしているわけです。だからしかしこれは本当に信心を、本当に親の信心を受けようとしている精進の姿というものがね、私はそこにね、そこにそういうふうに表われて来なければ受けられないと思いますね。全然九十五節とは意味が違う事になってきましたけれども。
 私が思うのに、神を売って食うよりもっと悪い、おかげを渡し切らずに食うて行くような、次の時代があってはならないと思うのです。それには本気で、例えば親の信心を受け継ぐと言う事は、子としては当たり前のことだけれども、安易いものではないと宿老は言っとられます。安易くないけれど、それこそ泣く泣くにでも、そこに辛抱しい辛抱しい、そこに精進して行かなければ、そこからわからせられるもの、いわゆるズーから分っていくもの、そういう姿に神様が御信用下さらないはずはない。
 神様が力を與えて下さらないはずはない。その力に依らなければ人は助からん。次の時代にです、合楽教会に兄弟達が息子が三人、栄四郎とともに四人おりますが、三人なら三人、四人なら四人力を合わせて親一人がただけの信心だけでもですね、受けてくれるなら、合楽教会は万々歳です。おかげを渡される。それは親の信心を受けようと、受けようとする姿勢、精進と言う事。
 そのために精進しようと、頂いて所々自分の合点の行ったところだけ、それこそ見事にピシャッと掴んで行くと言った様なのではなくて、私のそれは若先生の例を取って申しました。ではなしに良しも悪しもです、それはありましょうけれども、それを一ぺん全部頂こうという姿勢がです、精進がですね、なされなければいけない。その精進をしようともしない。だからこれを皆さんに換えますと、毎朝頂いとるけど、どこをどう頂いとるのか、わかっておるのかと、こちらから質問を送りたいくらいにある。
 昨日も御理解を頂かれて、そう感ぜられた方がある。これは今日の御理解は頂よるなら、いろんなことやら余りお願いできんと。自分の我情我欲のこと等は願われんというような気が起きられた方があるかも知れません。ある簡単なことをお願いをして、事務所の方へ下られた、日田の麻生さんが、「今日の御理解を頂よるなら、お願いすることの三つか四つかあったばってんが、今日の御理解頂きよるなら、後のことお願い出来ません」と言うて、事務所で話しよんなさいます。
 それを横で聞きよった秋永先生が、「そげなことがありますもんか、ちゃんと痛いなら痛い、痒いなら痒いとそれはお届けなさらなければいけませんよ」というて、横から助言をして上げたから、お願いをして、二度目ここに御見えになったから、御届け聞かせて頂くと、大変重要なことばっかり。こげなことお届けしなされねば出来るものですかというようなこと。何程それはそれは我情かもしらん、我欲かもしれんけれども、そこをそう頂かなければ立ち行かんのだから。
 そこで「今日の御理解を頂きよると、こげなことお願い出来ませんけど」と言われるから、「そげなことがありますもんかい、これはお願いはさらにゃいかんよ」と。「これはお願いはせん、これは自分でどうかやって行くということはね、これはお願いするよりも我情我欲をお願いするよりも、まあだ悪い。お願いせんということは、自分の我力でやっていこうというような考え方になりますから、それは却って悪い」と言うて申しました。だからお願いをせなければいけん。
 何故かってそれは親じゃから、親神様じゃから、「頼めば助くる」と仰られる親なんだから、こげなこつはお願い出来まい、このくらいのことは自分ですると言う様な考え方の方が悪いのだと。助けられると言う事には実を言うたら条件はないのだと。いかに頼むべきか、いかに助け給うのかと躊躇の要なしと。それは親なれば、だからと言う様な言葉になります。私が申し上げたことを文章にすると、ひたすら頼む外はないのである。例えば頼むと言う事に心を使えば。
 それは自力または我慢の根性があるから頼まれんのだと言う事。むしろその方が我慢我力だと言う事、と言う事になります。そして昨日三度目の御参りをなさった時に言うておられます。丁度二度目には研修会だったから、遠慮して帰って又夕方やって見えられた。「どうでもここの御理解は少なくとも二偏は頂かなければわからんですね」と言う事でした。だから私が願うのはね、そういう姿勢をとり、そしてそう言う事に精進すると言う事でなかったら表わされない。
 本当に親先生の信心は天才と高橋さんのように言ってしまえばおしまいです。ですから、やはり本気で取り組ませて頂いて、一つズーから頂こうという、頂こうとする修行というか精進です。私は頂こうとする精進そのものが尊いと思うのです。秋永先生の場合なんかは、一を聞いて十を悟るというた生き方ですからね。でなくてやはり一から二、三と順序を経て、身につけていくという生き方でなからんとね。私は神を売って食うよりもっと悪い信心に落ちると私は思うです。
 もう金光様の御信心はです、それを本当に受けようとする精進とです、それを表わそうとする努力がね、なさらないならば本当のものに育たん。これは私の後を受け継いでくれる子供達、私の信心をもって布教に出ようとする修行生の方達だけの事ではない、ここに御参りをする皆の人達の信心の、言わば頂こうとするその姿勢というか、精進、努力というものを払うて行く事によって、実力を身に付けて行く事によってです、おかげを頂いて行ける信心を、今こそ身に付けて行かねばならんのではないかと。
 今ならば私が昨日、麻生さんお取次さして頂いた様に、もう一つ向こうの事が分る、それを先々になったら誰が教えてくれるか、だから今教えを受けられる時にです、習うとかなければ、それこそ後の祀りになると。そういうものを受け継がずして、二代目を継ぎ、三代目を継いだ教会を見てみるが良い、例え事跡的な事は立派であってもおかげを渡しきらん。それで教会が維持されるとするなら、それは神を売って食うよりもっと悪い。おかげを渡し切らずに、ただお供えだけ拝みよる様なものだもの。
 親が残した財産というか、親が残した徳に腰掛けて生活する様な事にでもなったら大変だと。自分自身がそれを頂く、あの世にも持って行け、この世にも残しておけると御神徳、そのあの世に持って行けると言う事は別として、この世にも残しておけれるという、残された徳というものは、私はこれは二十年も前に神様に、言わばお筆先と言う様なもの、筆を持てと言われたから筆を持たせて頂いた時に書かせて頂いとるのはね。
 「徳は子ならず、子は折々の信心」と頂いております。徳は子ならずは弧独の弧じゃないです、是は徳は必ず子供に残って表れるのではなくて、徳は残ると教祖が仰る様に徳は残るけれども、それを表していくのは、子供のその折々の精進によって表わされるのだと言う事。私の知っておる範囲でも大変大徳な受けたお父さん、親先生がです確かに徳が残っておるです、けれども子供達が精進しませんから。
 それを表わす事も何も出来ないで困っておる教会がある事をいくらも知っとります。徳は残されるけれども、それを表す為には精進がいる。努力がいるのです。子は折々の信心なのですから、だからその折々の信心ですから、本気で親のものを頂いとこうという精進をしとかなければ出来ん。親先生がおる間に、皆さんが信心を本気に受けておって下さらにゃ出来んと。今ならばわからんところ質問すれば尋ねられるが。
 先になったら誰に質問するか。誰に尋ねるかわからんなり、間違ったなり残ってしまう。受ける方の側としても、その辺のところをもちっと真剣に頂かしてもらう姿勢を持たなければならない。その姿勢を示すと言う事だけでも、このように嬉しい事はない、このように有難いことはない。これは渡すものとして、また受ける側の者としてもこの様な幸せはない。その受けようとする姿勢を示さない。
 だからこの様に淋しい、この様に悲しい思いをすることはないと言う事になるのです。今日の神を売って食うと言う事には、大分意味が違いますけど、これよりもっと悪い在り方になりかねない。例えば私が知っている範囲の教会の場合からですね、だからそういうところで御参りがあったり、そう言う所で立って行っているのはです、もうそれこそただ取りしよるようなものだから、もっと悪いと言う様な事を申しましたですね。
どうぞ。